チーズ・オン・ライ

 ボクは変な子どもであった。小学生の頃に鉛筆を何ダースなくしたかわからない。折り紙もクラスで1人だけ折れなかった。絵も下手だった。同じ作業を繰り返すというのが苦手で、マス目に「な」というひらがなを何個も書いて埋めていく授業も1人だけいつまでも終わらないのであった。また、出血をしてとても痛いのに、なにも処置をしようとしないのであった。人がなにを考えているのかがわからず、鈍感であった。小学校1年生の時のベテランの担任は「黒須くんの面倒は見きれない」と言って、2年生に進級した時にその先生は別の学年の先生になってしまったのであった。人の話を聞いても、なにを言っているのか理解ができなかった。小学校3年生まで友だちがいなかったが、それを苦にした記憶がない。

 決まりを守るのが苦手で、友人と言い争いになり「長いものには巻かれろだよ」と言われた時「ボクは絶対にそんな考えはしない」と言ったことがある。

 父親は小心者で殴ったり怒鳴りつけたりする人で、母は対象的に異常にボクを甘やかす親だった。幼心に「これは甘やかしすぎる虐待ではないか」と思っていた。だから夫婦喧嘩の理由で一番多いのが「お前が甘やかすから啓太がダメになるんだ」というものであった。父親からは暴力的な虐待を受け、母からは甘やかしすぎる虐待を受けた。

 そんな両親が結婚前に付き合っている時「子どもがたくさんいる家庭を築こうね」と言ったらしい。そこに最初に産まれたのはボクであった。2歳の時点で「この子は普通の子ではない」と気づいたらしい。あまりにも育てるのが大変で、両親は次の子どもを生むことを諦めるしかなかった。また、母はよく「この子は世の中に出てやっていけるのかしら」と言った。何度か言われた。頼りない人に見えるらしい。

 一言で言えば「現実感覚がない」というのに尽きる。いまだにそうなのだが、モヤの中を生きている気がする。迷子になったときのような不安感が常につきまとっている感じである。この世界がたしかに現実のもので、その中に生きているのだという意識をどうやらみんなは持っているらしい。

 私の親は厳しい戒律の学校に入れて矯正させればどうにかなるのではないかと考えた。しかしそうはならず、教師と喧嘩し、目をつけられていじめられただけで終わった。厳しい校則に馴染めず頭がおかしくなっただけだった。

 最終的に両親は諦め、好きにさせることにした。そうすると私の精神病は治ってきた。大学に10年遅れて行った。自由な校風だったので居心地が良かった。年上ということで敬遠されるのかと思ったが、みんな仲良くしてくれ、就職も決まった。

 30代になって、ようやく自分がなにを欲しているのかがわかるようになってきた。それは世の中のことや、人の心、真理と言われるものを自分なりに知りたいということであった。ニーチェフロイトマルクス橋本治岸田秀小室直樹山本七平町山智浩はボクにいろいろなことを教えてくれた。彼らの本で買っただけでまだ読んでないものもあり、それを読むのが楽しみである。

長い間車椅子生活をしてきた人が、ようやく初めて自分の足で歩き出したような気がする。

 世の中には、若い頃は本を読んでいたが、働きだすと本を読まなくなるという人がけっこういるらしい。それはもったいないと思う。働いているからこそ読める本の読み方と言うものがあるからである。